気付いたら沼に居た

沼にはまりながら日々是好日

「し」と「じ」の一字に思いを馳せる余韻 

名古屋市能楽堂へ約1年振りに足を運びました。

昨年に引き続き、紺色さんが舞台で役を演じる機会に恵まれ、

五体投地。万華鏡のように色々な演目が観れて幸せでした。

感想や主観入りまくりのめんどくさい考察など。長いです。

 

去年の舞台がきっかけで、脚本家さんの主催する劇団の舞台も

2つの作品を観劇しに行ったのですが、私は、紺色さんに関して

言うと、台詞の声色であったり話す気迫であったり・・・という分かりやすい

部分であるよりは、余白・・・無言である時の所作であったり、他の人が

話していて影として場に居る時の後ろ向きでの立ち姿。

そういったところに、はっと惹きつけられる。

 

そういった余白であったり、その時場にいるけれど、スポットが当たらない人

は、今、何を考えているのかな・・・と居方があるキャラクターを生み出す力、

そして脚本家さんの客席に委ねる余韻、余白のあるお話が・・・稚拙な言い方

だけれど、ぴたっと紺色さんの演技にはまっているのだとおもう。

紺色さんの、自力で引き出すのは難しいけれど、脚本であったり

先生が引き出してくれることによって魅せてくるものが、予想以上に

客席に跳ね返ってくるのが良きと思っています。縁に感謝だよなぁ・・・。

 

今回紺色さんは、二期生であるバラの若君と登場人物は2人だけという

舞台「あさきゆめみし」で役を演じたのですが、台詞が多く、話す立場を担った

若君と逆に影(実際は、バラの若君の役が影であり紺色さんの役が娑婆に存在する

表なのだけど)を担った紺色さん。これって前より成長をした・・・

と見てくれたのか、それとも伸びしろを見たいと思わせたのか、とにかく

そういった役を与えてくれた脚本家の先生に本当に感謝しかない。

ほんと、感情を爆発させた表現というのは、(一辺倒にはなりがちだけど)

紺色さんは割と(贔屓目フィルターは常備)長けていると思うんです。

底抜けに明るい、とかね。でも、中々「静」な部分を表現する機会という

経験はあまり無かったように思うので、良かったなぁと思うわけで。

 

バラの若君はブログであったり二期生の立ち位置であったりで「発する」

ポジションにいて。だから、今回の役どころとしては、そこを

十二分に引き出し、魅力であるのだけど、紺色さんを慕う(兄ではないけれ

ど憧憬)というところが現実としてもある(と見えているのだけど)ので

役柄の「おとこ」としてもバラの若君とも見れてしまうわけで。

ホワイト☆タイツを観た時の衝撃までは無かった。私は、書くということも

「自らを表現する」ツールとして重要と思うので、そこを積み重ねている

バラの若君は、紺色さんに対して強みがある。それは紺色さんに補って欲し

いと(勝手に思う)部分で・・・、場で発揮させている若君が、羨ましかった。

 

かれこれ紺色さんのBDイベントから半年以上が経って、武道館も約100日に

控えていて。華やかな世界に居る紺色さんのことは私は分からないけれど。

でも、着実に積み重ねてるバラの若君や、課題を見つけてゴールを定めて

プロセスを組み立てて克服していこうとする紫さんを間近で見て、紺色さん

は改めてどうしたいのかなぁ、と。彼自身も考えていて、答えに辿り着かない

のかなぁとも思うし、結果を気付かせてくれるのにまだまだ時間を要するのか

もしれない。

今回の舞台の最後は、なので「おとこ」としてではなく「紺色さん」として

みてしまった、重ねてしまった。脚本家の先生が客席の私たちにもだけれど

紺色さんにエールを送っているようにも感じてしまった。

 

あさきゆめみし、と聞いて同名の漫画を想像して、源氏物語で当てはめて

考えていた。友人とどちらが光源氏なのかなぁとか、どちらかが姫君かな

とか、宇治十帖じゃないかなぁとか・・・。とても楽しかった、それも。

勝手な考察だけれど、今回のタイトルは読んでそのままだけれど、

いろは歌からかなぁと観た後思った。「色は匂えどちりぬるを」から

はじまり、結びは「浅き夢みし、酔いもせず」

 

浅き夢みし、と浅き夢みじの1字が違うと意味が大分違うという

古典の先生から聞いた話を思い出しまして。

 

自分が今まで(生きていると)夢を見ていたんだなぁと悟り、

(自分が死んでしまったという事実に)気付き(自分のそれまでを)

振り返る「おとこ(=バラの若君)」が「あさきゆめみし」であって、

「おとこ(=バラの若君)」が死んでしまった、居ないという事実を

悟って、受け入れて酔いしれたり夢をみたりしない(=自分の後ろを

ついてきてると思ったり、声が聞こえたと思ったりする)前を向かなければ

と足掻く「おとこ(=紺色さん)」が「あさきゆめみじ」なのかなぁと。

それに対する救済措置が鈴虫の鈴なのかな、と。

 

お互いがそれぞれ耳にする、鈴虫の鈴の音(バラの若君が鳴らす鈴虫の鈴に紺色さんが気付くか否か)で、軸が違う世界(娑婆かそうでないか)の歯車が

重なって巡り合えるか、一方的に見える存在で終わるのか。

色々余韻と余白について考えてしまったのでした。

 

長いわい。映像化して残してください、ほんと。